ぼそぼそひとりごと

V6・KAT-TUN中心にJ事務所を緩く愛でてます。

仁亀厨のつらつら感想。

ほぼポエム。





2023年11月15日
「【恋バナ】後輩 目黒と恋愛トークをしたら「ダサい」と言われてしまいました・・・」
感想



個人的には、目黒蓮という人と亀梨和也のコンビは大好きなので嬉しかった。
後輩といる亀梨和也が、好きだった。

たくさんの人といることが好きなのに、亀梨和也、であるが故、怖い印象を持たれやすいと、私は思ってるから、そんな亀梨和也が誰か、他の人といて、優しく笑ってるのが好き。





【あの頃】のこと、2人はどう思ってた、そして、今はどう思ってるんだろう。
憧れで大好きな先輩だった赤西仁と、なついてくれてたくさん真似してくれた可愛い後輩の亀梨和也と、勝手にライバルや不仲や、そんなことにされて、ほんとうは、どう思ってたのかな。
「勝手に」、これも事実かどうか分からないけど。

もしかしたら真実だったかもしれないし、ウソだったのかもしれない。
まことしやかにささやかれていた、「事務所に不仲に見せるように指示された」という、あの噂も、ほんとかどうか、私たちには分からない。
どっかで言ってたらごめんだけど。忘れてる可能性がありすぎて自分が怖い。
でも自分から再度答え合わせにいく勇気はない。

きっとそうだと、信じることしか、そんな噂に縋ることしか、できなかったのだと、今では思う。

不仲だと、信じたくなかったから。

時間をかけて輪郭が曖昧になってやっと、私も、「真実は分からないよね」と、心の底から思えるようになった。

なのに。

亀梨和也赤西仁のことを「ライバルだと思える間柄ではなかった」と、言った。
これもほんとうの意味は、彼にしか分からない。

でも、「そうだよね」と、思った。
あなたは赤西仁のことを兄のように慕い、憧れ、目標としていたものね、と。
同じ立場だった。
中合わせの鏡みたいだった。
同じジュニアで、同じグループで、隣で同じ先頭にいて、同じ夢を追いかけていたもんね。

それでも、横に立ってなお、ライバルにはなりえなかったんだろうか。
ずっと、憧れた人のままだったのだろうか。

それが、努力の人である亀梨和也の、考えだったんだろうか。
どこまでも「才能」に愛された赤西仁に、最後まで「同等だ、ライバルだ」と、思えなかったんだろうか。
傍目には対等に見えて、内面ではずっと、勝てないと思っていたんだろうか。

もしそうだとしたら、どれだけ辛かっただろう。
憧れの、追い付けないと思っていた人が居なくなって、そしてその穴埋めを自分が任されるなんて。

もしそうだとしたら、ツートップであることで得れていた安心感はきっと、すごく大きかったんだろう。
そして、それを失くす辛さは、どれほどのものなんだろう。

赤西仁は、自由で、天真爛漫で、才能に愛されていて、どこまでも、人を惹きつける何かがあったと思う。
それが才能なのかも、しれない。
私たちが魅せられたように、亀梨和也もまた、魅せらていたのかな。

あの短い言葉の中で思い知らされたのは、亀梨和也は、赤西仁を、仁亀を、【シンメ】を私達よりも遥かに重く受け止め、考えているということだけだった。

シンメは呪いだと、ずっと思っている。

明確にシンメが決まっていたKAT-TUNだとなおさら、ツートップだと言われていた2人ならなおさら、そうだったのだと勝手に思っている。

シンメにもそれぞれの形や関係性や感情や重さや軽さがあって、その中でもきっと、仁亀というシンメは、シンメという事実が重かったんだろうな。
負担、ってことではなく。

あぁでも、そうなると重かったのはツートップ、ワントップという言葉なのかもしれない。

亀梨和也が昔言ってた、「メンバーが減ってから、辞めることも考えた」「アー写で自分を指で隠して、この方がバランスいいよなって、考えたりした」って話が、忘れられない(ニュアンス)。

赤西仁と2人で立ち向かっていた日々からの、ワントップとしての重責は、どれほどのものだったんだろう。

そしてそれを今「時期が重なったことに感謝している」とは。

赤西仁がいなければ、「アイドル・亀梨和也」は存在しなかった。絶対に。
シンメでなければ、きっと、今日の亀梨和也は存在しなかった。

それぐらい、亀梨和也にとって、赤西仁の存在は重いんだろうと勝手に思っていたのに、それが、(きっと)事実だと?
なんなんだほんとうに。
いい加減にしてくれ。


あの頃のKAT-TUNに対して、私はずっと夢を見ている。

そして、あの頃の2人のこと、関係性。
そんなものは平成にとっくに置いてきたつもりになってた。
たまに取り出して、懐かしく、感傷にふけって眺めるだけだった。

それでも、充分だった。
人は思い出の中にいる時が一番美しいから。
その美しい思い出をたまに眺めて、それだけで満足だった。


あの動画を見て「ムラサキ」が頭に浮かんだ人がいたらしい。

「うまく言えないサヨナラが素直な自分へと変える」
「近づけば近づくほど 離れてく気がしたよ」

なんか意味分からんけど「どんな伏線回収だよ!」と叫んでしまった。

こんな、15年以上の時を超えて、こんな、こんなことってあるのか?

今まで私は仁亀厨として、ムラサキ記念日やボニバタや些細な仁亀案件をそっと、大事に抱きしめていきてきた。
きっと多くの仁亀厨も同じだと思う。

それでも、みんなきっと、あの頃のことは平成に置いてきてたんだよ。
大事に抱えながらも、いつの間にか諦めの色が濃くなって、でも捨てることはできなくて、そういう、思い出とか、過去とかにしてきたんだよ。
タイムカプセルというよりも、墓標みたいな。
よく「墓を掘る」なんていうけど、ほんとに、そんな感じ。
明確に掘った覚えはないけど、気付けば掘っていて、埋めてたんだと思う。
それを本人に掘り返される気持ち・・・死者がよみがえったよりタチ悪い。

これが害のあるゾンビなら、一思いに殺すこともできただろう。
でも、なんか分からんけどもはやなんか癒しの効果とか効能があるような、そんなゾンビとして、来られたらさぁ!

なんていうの、写真1枚しかなかった思い出をいきなりVRで細かい所まで隅々まで見せつけられる、みたいな?
あ、あそこ記憶と違うじゃん!って突きつけられてるような?

シルバニアファミリーで遊んでたのにいきなりコストコのデカクマちゃんがやってきた、みたいな?
赤い屋根の大きなお家にコストコのクマちゃんは入らんのよ。

子どもの頃に駄々こねて買ってもらって遊び尽くして忘れ去った人形が、ある日家に帰ったらリビングのテーブルに座ってた、みたいな?

もはや恐怖だよ。なにこれ、なんでこんなことになってるの?

誰かにこの胸の痛みを共感してほしいからずっと例えを考えてるのに浮かばない。

もっと言葉というものを、感情というものを勉強しとけば良かった。
この気持ちを言葉にできないのが悔しいし悲しいし口惜しい。
こんなにも、熱くて強い感情なのに。

てかふざけるなよ、こっちが時間をかけて淡い思い出にしてきたのに、それをこんな・・・こんなひっくり返し方あるかよ。
もう逆に怒りが湧いてくるのなんで?
嬉しいはずなのに、なんかもうよく分からなくなってくる。

あの頃は、いつ思い返しても綺麗なんだよな。
やっぱり【思い出】だからなのかな。

どうして、今さら言葉に出し始めたの?
消化しきれたの?それとも、思わず過去を眺めてしまうぐらい、何かに疲れているの?

KAT-TUNはいつも、いつだって、痛みも悲しみも傷も、ぜんぶ抱えて、なかったことになんてしないで、ずっと前を向いてる。
ぜんぶ受け止めて、どんな言葉にだって、真摯に向き合って。
そうして、ただひたすらに真っ直ぐ、「傷なんてないよ、痛みなんてないよ」って顔して、私達に微笑みかけてくれる。

KAT-TUN孤高の人たちの集まりだと、今も昔も、ずっと思ってる。
個々が孤高であるからこそ、KAT-TUNなんだと、ずっと。

なのに、なんで今、このタイミングで?
何かの匂わせなの?
匂わせであってくれと願わずにはいられない。
そしてその結末は幸せなものであってほしい。

これ以上、悲しみたくない。





絶対関係ないけど、fantastia、初めて聴いた時、「お別れの前触れみたいなアルバムだな」と思った。

今回のツアーも、なんだか、過去をふんだんに盛り込んでいて、ものすごく楽しかったけど、でも、怖かった。
ここ数年でいちばん好きなコンサートだったんだけど、ずっとどこか、不安だった。

どうして、周年でもないのに、こんな切なくなるコンサート編成だったんだろう。
いや私が勝手にそう感じただけなんだけど。

ただ今は、この私の恐怖が外れてくれと、そう願うことしかできない。


私は、KAT-TUNKAT-TUNでいることを選び続ける限り、この船に乗り続けると決めた。
これは私の反省からの意地だ。

メンバーが減って、KAT-TUNという概念が変わってしまうと思い込んで、そしてひととき、離れた。
仕事が忙しいなんて言い訳だよな、知ってる。

それでも、私が戻ってきた時、KAT-TUNは3人だったけど、何も、変わってなかった。
6人の時と、【KAT-TUNという概念】は、なにひとつ、変わっていなかった。

だから、だから、自戒を込めて、絶対に、KAT-TUNがこの船を手放すまでは、ちゃんとhyphenで居続けると、決めた。
決して、熱心なhyphenではないと思う。
こんな偉そうに語れるほどのhyphenではない。

それでも、KAT-TUNという概念が私の軸になっていることは事実だ。


その中でもやっぱり、仁亀は核で。
申し訳ないけど、そんじょそこらのシンメと比べてもらっちゃ困る、と思っちゃうぐらい、仁亀というシンメに対しては激重の感情を抱いている。

私はあの頃、もしも子どもが生まれて、その子どもが男の子の双子だったなら、絶対に隼人と竜と、名付けると決めていた。

仁亀は、シンメであり、友人であり、兄弟であり、ライバルであり、同士であり、戦友であり、運命であり、宿命だと、思ってた。
その全てを足したら、仁亀になる。

それだけの言葉を足さないと仁亀にはならない、ぐらいのことは思っている。
なんならこの言葉たちでも足りないぐらい。
でも私には仁亀を表す最上級の【シンメ】という言葉以上のものは知らない。
悔しい。もっと素敵な言葉があるはずだろう。
仁亀を表するのに相応しい、美しくて儚くて、強い言葉が。


どこか遠く、心の中だけでそんな風に思っていたのに、いきなり、そんなのズルいだろ。
なんで今さらそんなこと言うの。
なんで今、このタイミングなの。
どんな意味があるの、その言葉に。

裏なんてなくても探しちゃうんだよ、オタクだから!
勝手に言葉の裏の意味を探して考えて、そうやって1人で一喜一憂するんだよ、オタクなんだからさ。


KAT-TUNはさ、強いんだよ。
強くて儚くて孤高で美しくて。
誰よりも高みからこちらを見下ろしているんだよ。
それが好きなんだ。そこが、大好きなんだよ。


なのになんでこんな、こんなタイミングで不安になるような、いや、普通に喜べばいいのに、嬉しすぎて怖いのかな?
1人で怖がってるだけなのかな。多分そうだな。ごめん。

なんかもう分かんないや。
でもとにかく怖い。仁亀怖い。

ほんとうに精神衛生的に悪いからいきなりこんなのぶっ込まないでください。
勘弁して、ほんとに。
体調崩すってまじで。
ちゃんと予告してほしい。

てかコンビニ行けなかったって。
鳥かごって。
そんな中で亀梨和也にとって、赤西仁って結局どういう存在だったの?

やっぱり、追いつけなかった憧れの人なの?
お兄ちゃんなの?

いや、違うよな。
たぶんそんな陳腐な、ありふれた言葉じゃ表せられないよな、仁亀って。

仁亀重すぎる。
亀梨和也が、我々が思ってる以上に仁亀というものに対して重い。
分かってたけど重い。
もうこの動画の端々から勝手に感じ取っちゃってしんどい。



不仲でも、不仲じゃなくてもいい、なんでもいいから、いつか、6人がもう60代とかになって、全てのしがらみから解放された時、また6人でたった1曲でいいから、歌ってほしいと、ずっと、祈っている。