ぼそぼそひとりごと

V6・KAT-TUN中心にJ事務所を緩く愛でてます。

ロスメルスホルム 感想

私への備忘録(ほぼ初回見た時の感想)(配信見て補足等)

森田剛、身長160センチ台なので、今回の演者の中で相当小さい方なのに、出てきた瞬間に空気が締まった気がした。というか、一気に翳りを帯びた。
今回の舞台、結構早口で暗くて、でも急にコメディ要素?出てきたり、緩急がすごかったんですけど、森田剛がその中でしっかりと地に足が付いてるというか、森田剛の重さによって根っこが決まっているというか。
内容はまぁ説明が難しいんですけど、簡単に言うと「中世ヨーロッパの政治と信仰による対立をめぐる人間模様」って感じ。
森田剛は「代々引き継いできた牧師の家系の息子で、今は牧師を引退してぼんやり暮らしている」っていう設定なんですけど。
なので難しい言葉?もそこそこ出てくるし政治的意見で対立してるので討論するような場面もいっぱい出てくるんですね。
で、森田剛、話の中で一度も、笑わないんです。
コメディ要素が出てきても、笑わないんです。
他の演者はだれかと話す時に微笑んだりしてるのに。でも、それに誰も気付かないんですよね。(私だけか?)
笑ってないのに微笑んでるように声音が優しかったり、物腰が柔和だったりして、誰も笑ってないことに気付かないんですよ。
物語の終盤「あの人が笑ったところを見たことがありますか?」ってセリフで初めて気付かされるんです。(私だけですね)
(だって、友人を迎えた時のあの声の張り具合で笑ってないなんて、気付かなくない?)

それからね、物語の中心人物として話が進んでいくのに、森田剛はずっと、舞台の端っこに立ってるみたいな存在感なんです。
でも、確かにそこにいるんです。
大きく目立たないのに、無視できない存在感が確かにあって。不気味で、でもまとう雰囲気は柔らかくて。そういうアンバランスさを纏えているのがすごいなって。
いない時ですら、森田剛の影を感じてしまうんです。どこかで見てるんじゃないか、聞いてるんじゃないかって。
そんな不気味さが、あの森田剛にはあった。

でも同時に、なんにも知らない無垢な子どもにも見えた。
真っ白で、柔らかくて、固い、どこまでも純粋で崇高な魂を持った、言葉すら知らない、子ども。
だからこそ、揺らいで、揺らいでいる自覚すらなくて。
まるで揺蕩う死体みたいだと思った。

人は死でしか、ほんとうの自由にはなれないのかな。

話自体は森田剛以外の演者がものすごく早口でハッキリとした滑舌で、テンポ良くというか、早すぎるぐらい早く進んでいくんですけど、森田剛パート(?)になるとね、時間の流れがゆっくりになるんです。
そこでやっと私たち観客が息を吐ける感じ。
森田剛のセリフによって、今まで高速で流れて行ってた情報をかみ砕いて、整理して・・・みたいな。
どうあがいても、主役、という以上に、森田剛はそこに【必要不可欠】な人間だった。

彼の作り上げている空気感は、もちろんV6の時とも、バラエティの時とも、他の舞台とも違っていて、影を帯びているのに柔和で、儚いのに存在感があって、勤勉なのに堕落してるようにも見えて、無我夢中なのに諦念も感じさせて、厳格なのに優しくて、禁欲的なのになぜか色気があって、でも、絶対に触っちゃいけないって思える何か、があるんですよね。
目の前にいるのに、あるのに、掴めない感じ。
他の演者は「人間」って感じが強くするのに、森田剛だけは物語の中にいる人みたいなんですよね。
どこか、浮世離れしてるというか。

特に、なにをするわけじゃない。
ただ、そこにいて、じっと人の話を聞き、受け止め、そして話すだけ。
ただ、それだけなのに。
どうやってあの空気感をまとったまま、真っ直ぐ立っていられるんだろうって思ってしまう。
役をそのまま背負い込んでいるのなら、その重圧に押しつぶされたって仕方ないのに、それでも、諦めたような顔をしながらも、物事に真っ直ぐ向き合う情熱は持ってるんですよね。
不思議だった。

森田剛森田剛だった。
あの板の上で、スポットライトの下が誰よりも似合う人だった。

あと、全然関係ないけど、一幕の中盤で、かかとがぴったりくっついてるのにO脚の足(後ろ姿)を見て「森田剛だ…」って泣けてきた。話の筋1ミリも関係なくて自分で引いた。
なんでそうなったんだろうって今さら考えたら、たぶん私は怖くなっていたのかもしれない。
席がめちゃくちゃ後方で、双眼鏡使ってしか細かい動きが見えないので見てたけど、気付けば森田剛の顔ではなく、手や、足を見ていた。

動かないことが、気持ち悪かった。
どうしてそんな話をしながら、動かずにいられるの?
どうしてそんな話を聞きながら、感情を身体に表さずにいられるの?

だから、手や足を見て、本当に動いてないのか無意識に確認してたんだと思う。
そして行き着いたのはのはかかとがピッタリくっついてるのにO脚な【森田剛の脚】だったんだけど。

今回の舞台、とにかくシンプルだった。
無駄なものをぜんぶそぎ落とした先にあった舞台だな、って。

先に書いたように、お話自体は権力・思想・思惑・愛情、色んなものが複雑に絡み合ってるはずなのに、とてもシンプルに見えた。むきだしで立ってるみたいに。
生身の、すべてを突き詰めた先にある【人間】っていうものが見えた気がした。

カテコの時、出てきた人数の少なさに驚いた。
いや、当たり前だったんだけど。
それでも改めて、「たったこれだけの人でこの舞台を演じていたのか」と。
誰一人、なに一つ欠けることが許されなかった舞台だと思った。

どんなセリフにも意味があったんだと思う。
必要でないセリフは極限まで削ぎ落として、すべてのセリフに役割や意味があったと、感じさせられた。

動かないことにも、動くことにも、どんなことにも意味があるものだった。

最後、レベッカの死を止める時に初めて、レベッカに触れる。
身体的接触のない魂の結婚を求めていたロスメルと、どれだけ魂の交感をしていても肉体接触を求め、そしていつしか諦めていたレベッカの、初めての、触れあい。
しかも、ロスメルから手を伸ばした。
相手の死を止める目的といえど、ロスメルから。

きっとそれが、【一線を越えた】瞬間だったんだろう。
死を目前にしないと、この結末にはたどり着けなかった。
そのことにレベッカは改めて気付いて、絶望では言い表せない感情になったんじゃないかと思った。

でも、自らの意思で自分(の手の甲)にキスをしたロスメルを見て、やっとそこで初めて、報われた、救われたのかもしれない。
私ならきっと「ようやっと、この男がほんとうに自分のものになった」と、安心する。

レベッカはずっと「マイルール」を作ってたのかなと思った。
妻を自殺させられたら、信仰を捨てさせられたら、それを他人に主張できるようになったら、ロスメルがあの橋を渡ったら。
マイルールというよりも、賭けに近いのかな。

死が2人を別つまで、ではなく、死によって一緒になれる結末は、とても皮肉だったな。


あぁ、そういえば、カテコの終止符を打った(ように見えた)のも、森田剛だったな。
目線で、仕草で、終わりだと、告げられたように私は感じて、そしたら、カテコは終わっていた。

カテコになった瞬間に「森田剛」に戻れるの、いつもなんなんだろうって思ってる。
そんなに簡単にオンオフ切り替えられるもの?
歩き方すらも変わって見えて、憑依ではないんだけど、なんだろう、私にはオンオフとしか言えないんだけど。
憑依ではないんだよな、なんか。


森田剛の人生に、人生観に、考え方に、ロスメルが足されて、これからの森田剛を形作るんだな。
それって、すごいことよね。
私たちが見えている以上の情報(設定)が、演者さんたちの中にあって。
その中には今まで知らない、気付かなかった考え方とか感情もあるかもしれない。
そして、明日からの「森田剛」という人をつくる。

ロスメルが背負っている重さは、どう足掻いたって、分からないんだろうな、とぼんやり思う。
頭で理解することはできても、体感としてはもちろん無理だし、そもそもそうなったらきっと私は発狂してしまうな。

それぐらい、重いものなんだろう。
それを1人で抱えて、なお真っ直ぐに立っている森田剛は、どうやって立っていられるんだろう。

なにもかもをかなぐり捨てたくなるほどの絶望に駆られながらも、どうして、情熱を失わずにロスメルは立ち向かえて、それを表現できるのだろう。
やっぱり、なにも知らないからなのかな。
それとも、すべてを知ってるから、なのかな。

レベッカも、妻も抱いていた「肉体的接触がしたい」は、愛の中でも最上級に重いのかもしれないな、とふと思った。
というか、それを相手の意思を尊重して抑えていたからこそ、最上級に重く感じる、っていうことであって、ただの性欲が愛の中でいちばん重いとは思わない。

男の人のことは分からないけど、女性がそんなに長く、深く肉体的接触を求めるのって「この人の子どもが生みたい」以上の感情がないと出てこない発想では?とか思ったり。
ましてやあの時代で。
ほぼ本能で愛しているに近いというか、魂レベルで深く求めているというか。

それに対してのロスメルは、性的欲求を抑えるような育て方をされたからそうなったのか、それとも元々の性質としてあまりそういったことが好きではなかったのか。
好きではない以上に、嫌悪感すら抱いてるように感じた。
直接的ではないのにそう思わせられるって凄いよな、って。

複雑でシンプルで、考えさせられる舞台でした。

アーカイブであと何回か見たら、感想は変わるかもしれない。