ぼそぼそひとりごと

V6・KAT-TUN中心にJ事務所を緩く愛でてます。

KAT-TUNという概念について。



先日、会社の上司(男性)に、「女の人って、変化を好まないからね」と言われた。

この時は私に対してではなく、私の上司(もちろん女性)への言葉だった。



その時は「まぁ・・・そうかもしれないですねぇ」と、とりあえず笑って流したが、
「女性」という大きな括りではよく分からないものの、私自身には当てはまりすぎていて、
ここ数日、ずっと考えている。





私の短所のひとつとして、ずっと分かっていたこと。

「変化するものが苦手」

だから、思いきった行動がとれない。

ここ数年で、少しはマシになってきたかな、とは思うけど。





話は飛躍するかもしれないが、だから私は、好きになったものが変化してしまうと、途端に着いていけなくなる。



私の最初の担当、赤西仁KAT-TUNを脱退し、事務所を退所した、あの時。

相当悲しんだし、傷付いたし、苦しんだ。


その時、聖の言葉に救われたことも覚えている。

「二度と、みんなを悲しませたりしないから。
信じて着いてきて。」

でも、私は結局、「好きになった時の形(6人)」が変わってしまったことを受け入れられなくて、離れた。
いや、仕事が忙しくなったのもあるんだけど・・・ゴニョゴニョ・・・




今、またKAT-TUNを応援しようと思ったのは、多分、「概念としてのKAT-TUN」が、変わってないと、自分で判断したからだと思う。


メンバーが減っても、「KAT-TUN」という「概念」は、あの日から、何ひとつ変わってなかった。




そう思うと、KAT-TUNという概念」ってなんなんだ?という自問自答が始まった。



私の中でKAT-TUN
・絶対的なカッコ良さ
・「孤高の人」の集まり
・見たことのない景色を見せてくれる人たち

というイメージだ。

もちろん他にもたくさんあるが、とりあえず、この3つから考えていこうと思う。


・絶対的なカッコ良さについて
衣装や曲やコンセプトや本人達のビジュアルの良さはもちろんだけども、そういうことじゃない。
なんと言葉にしていいか分からない、「絶対的なカッコ良さ」があると思っている。
口先の「カッコいい〜!」ではなくて、何か、人間の本能に訴えかけてくるカッコ良さ。
雰囲気やオーラ、といわれるものだと思う。
そしてそれは、コンサートの時に余すことなく発揮される。
だから、KAT-TUNをテレビでしか見たことのない人には、もしかしたらあまりピンとこないのかもしれないなぁ・・・。

KAT-TUNは男性ファンも多い」というのも、ここにあると思うけれど、この「絶対的なカッコ良さ」を表現できる言葉が私には見つからない。
「とにかくカッコ良いんだよ!見ろ!見たら分かる!」としか言えない自分が悲しい。



・「孤高の人」の集まりについて
KAT-TUNが他のグループと違う、大きな部分は、この「孤高性」にあると思っている。
馴れ合いでも、友達でも、家族でも、仕事仲間でもない。
「孤高性が高い人」が集まり、KAT-TUNができている。

そもそも孤高とは、『人の社会生活における1つの態度を表し、ある種の信念や美学に基づいて、集団に属さず他者と離れることで必要以上の苦労を1人で負うような人の中長期的な行動とその様態の全般を指す。本来は俗世間との通行を自ら断って1人で道を求める者の姿を指しており、私利私欲を求めず他者と妥協することなく「名誉」や「誇り」といったものを重視する姿勢から、周囲が「気高さ」を感じるような良い意味での形容に用いられる〜(中略)〜。芸術家や指導者に多く存在する。』
(Wikipediaさんより引用)


本人達を見ていて感じるのは「この人たちには、何かブレない芯がある」ということ。(軸、でもいいけど)
でも、その芯は、それぞれ違うこと。
そして、その「芯」に従って、それぞれがそれぞれに動いていること。
ちゃんとした「芯」があるからこそ、周りのことも、自分たちのことも、冷静に見ることができているだろうということ。

そして、その「芯」を、彼らは必ず貫き通す。
貫き通す姿勢に、強さに、周りは勝手に「気高さ」を感じてしまう、そんな人たちなのだ。

彼らのソロを見たら、分かると思う。

誰も、入り込めない世界。空間。
そしてその空間を支配する、絶対的な君主。
どんな柔らかい曲でも、いつだって「支配」している。
高みに立ち、自分以外を寄せ付けず、見下ろして(みおろして)いる。

私たちはただただ、それを見上げることしかできない。
「見下している(みくだしている)」のでは、決してない。
彼らは、たった一人で、自分の「信念」やら何やらを抱え、立っているだけだ。
そこに優劣も、上も下もない。

「孤独」ではなく「孤高の人」、それが、KAT-TUNと他のグループとの大きな違いだと思う。



・見たことのない景色を見せてくれる人たちについて
これは、上の孤高性に繋がるところが大きくある。
彼らの「芯」は、当然私たちの中にない。
そして、その「芯」の正体も、彼らにしか分からない。
だから、この「芯」に触れていれば、着いていけば、自分では思いつきもしなかったような景色や世界を見せてくれる。

もちろん、デビュー前から彼らを見てきて(と、言ってもいわゆるごく出ですが)
デビューやミリオンや、ギネス登録のコンサートや、その他諸々。
広がっていく世界をリアルタイムで見せてくれた、というのもある。

「新人」扱いされていたKAT-TUNが、いつの間にかミリオンアーティストになり、テレビにたくさん出るようになり、仕事の幅が広がり、ファンが増え、知名度が上がり。
そんな風に、私がKAT-TUNを応援する中で、見たことのない景色を、たくさん見せてくれた。
KAT-TUNに着いていけば、このまま、どんどん上へいける。どんどん新しい世界を見せてくれる。」
あの頃の私は、一筋の疑いもなく、そう思っていた。










とりあえず、私がKAT-TUNに抱いている3つのイメージを深く掘り下げてみたが、正直、「KAT-TUNという概念」の正体は分からないままだ。(え?)

でもきっと、この3つと、他のたくさんの要素を複雑に絡めたものなんだろうな、と思う。

そしてそれは、人によって違うものだとも思う。

私がKAT-TUNに感じる「カッコ良さ」よりも、「可愛さ」を先に感じる人もいるだろうし、
KAT-TUNの孤高性?意味わかんない」という人もいるだろう。
「見たことのない景色って、大袈裟じゃない?大体分かるでしょ」というような人もいるんだと思う。




でも、それでいいと思う。
彼らは「ひとつの枠に収まったファン」をきっと求めていないし、いつも「俺らこっち行くけど、着いてくる?着いてこないんなら別にいいけど。」ぐらいのスタンスで私たちに接してくれる。
決して、「ねぇ、一緒に行こうよ。大丈夫?いける?」というスタンスではない。

このスタンスさえ、受け取り方は千差万別だ。
中には「KAT-TUNはいつも私たちに寄り添って、一緒にいこうって言ってくれるもん!」という人もいるでしょう。

ただ、少なくとも私はそう感じているし、そんな彼らだからこそ、その「芯」や「信念」の先にある、「見たことのない景色」を見たくて、私は彼らに着いていくのです。





長くなりましたが、もしここまで読んでくださった方がおられましたら、本当にありがとうございます。

KAT-TUNの「CAST」というアルバムが、大好評発売中です。

良かったら聴いてみてください。

損は、絶対にさせません。

よろしくお願いします。